日常と死

 土日で演劇充(二作だけど)してきたので備忘録。

 たまたまだが、両方とも「日常と死」を描いたもの。

/// 内容知らないと何言ってるかわからない可能性が大。観ることをおすすめするが、前者は公演終了。後者は26日まで。ただし後者は結構忠実に映画化されている。

 

■世田谷シルク「赤い鳥の居る風景」@座・高円寺(10/18)

 「死」が生活の背景に押しやられており、にもかかわらず、わたしたちはそれを利用しているか。

 わたしたちの世界と刑務所とを隔てる壁は、牢獄として、パーティ会場として、テーブルとして現れているのだ。それを飛び越えられそうな「若い女」もブラジルがどうとか言い出すし。登場人物の誰にも希望を見いだせない。

 /// 演出が凝っていて、しかもそれが見事に(異)世界観を生み出している。足場を利用した舞台装置も見事。

五反田団「生きてるものはいないのか」@青山円形劇場(10/19)

 「死」(あるいはその対概念としての「生」)を忘却して生活している普通の人々(たとえばカフェで「孕んだこどもをどうするか」議論する三人)は、不条理的な状況の中で「生きてるもの」を探し求めるんだけど、その人たちもガンガン死んでいく。面白おかしく。

 一方で「死」と向き合っていた病院の少女は「生きてるもの」を求めずに海に向かい、生にしがみつく人間の首を絞める。

 戯画的に描かれる「死」が教えてくれるのは、現代の「物語」がいかに「死」を劇的(!)なものとして描いてきたか。そしてそのことによって、逆にわたしたちを「死」から遠ざけてきたか、ということだ。

オリジナル/コピーとはなにか。作品の同一性。

最近ずっと自己論ばっかりやっている。自分主催で後輩と読書会をしていて、そこでも(アンソニー・エリオット『自己論を学ぶ人のために』を)やった。そのリポートを書くかということで、そのアイデアをポツポツと書く。その第一弾。

 

 ミード以降、(シンボリック)相互行為論の成果によって、自己の社会性、つまり「自己が他者(社会)によって規定されている」というテーゼが受け入れられるようになった。

 

 マルクスはこの自己の社会性における「社会構造」の部分を先駆的に発見していたのではないか。というより、相互行為論がそれを拡張したと言うべきか。

 

 この発見は、アルチュセールの「呼びかけ」、フーコーの「主体化」等、フランス哲学に受け継がれていっている。

 

 まぁつまり、デカルトのコギト(我思う故に我あり)的なものへの批判なのかな。相互行為論はアメリカで、マルクスはドイツ、アルチュセールやその弟子たちはフランスと、西洋でもアメリカでも、それが噴出したと。

 それはいいとして、ここで表題の件。オリジナル/コピーとは何か。

 

1. 自己(西洋哲学なら主体といった方が適切か)は大なり小なり社会によって定義づけられている。

 

というテーゼを受け入れるのならば、ここでこんなことが言えそうだ。

 

2. 自己が作り出した作品は、完全なオリジナルなど存在しない。

 

(ここで、クリステヴァ間テクスト性(intertextuality)が想起されるが、これは読者論であって作品論ではない(し、だからこそ転回という意味で重要)と思うので脇に置いておくことにしよう。)

さて、しかし、ここで問題になってくるのは、「なにをもってオリジナル/コピーなのか」ということである。以下のテーゼのどちらを受け入れるか。

 

 3-1. 完全なオリジナルでなければ、作品Aはコピーである。

 3-2. 完全なコピーでなければ、作品Aはオリジナルである。

 

 テーゼ3-1を受け入れた場合、すぐさま以下のテーゼが受け入れられる。

 

 4-1. すべての作品はコピーである(完全かどうかは不明)。

 

 これではあまりにもラジカルすぎるし、実際の感覚では、オリジナリティを感じる作品は存在する(し、それらを肯定したい)ので、これは是非とも棄却したいテーゼである。

 そこでテーゼ3-2を受け入れてみよう。ここからはあまり受け入れがたいテーゼが引き出されないが、そもそもテーゼ3-2自体がラディカルすぎるという感じがある。ここをもう少し精緻に議論したい。

 しかし、そろそろ長くなってきたので、テーゼ3-2を発展させる際に発生する問いだけ提出しておこう。

 

 3-2に関連する問い1. 完全なコピーとはなにか。

 3-2に関連する問い2. オリジナルのなかのグラデーション(つまり、完全オリジナル、オリジナル、コピー、完全コピー等)はどのようにつけられるべきか。あるいはつけることは可能なのか。

 

 問い1について少しだけ書いておく。これは同一性の議論につながるのではないか。つまり問い1は、「同一な物は存在するか」「A=Bは可能か」というウィトゲンシュタイン的問いになるのではないか。

 作品論で言うと、たとえば、便器を美術館に展示したときに、私たちはそれを便所で見たときとは(たとえ、全く同じ物を移動させただけであっても)異なる物として見る。つまりコピーであっても、やはり違う物であると論ずることは可能なのである。

 

 と、ここまできて留保しておいた間テクスト性の問題に戻ってきてしまった。やはり無視できないのか。

 

 

 今回はここまで。次回はあるのか。そして批判がほしい。

「A BloCreation」Work Shop1に行ってきた。

表題どおり。

 

概要

「A BloCreation」(略称ABC)についての詳しい内容は

公式サイト

facebookサイト

を見てもらうとして、簡単に言うと「浜松でアニメプロデューサーを育てよう」という企画なのです。

企画としても興味あるし、知り合いも何名か関わっているので、そこにオブザーバー(見学者)として参加してきました。参加費無料。

 

場所は、浜松市万年橋パークビル8Fオフィススペース(100円ローソンの近く)というところ。入り口付近で案内してくれる人がいなければたどり着けなかった気がする。

 

本題

 「地方とアニメはどう関わるべきか」というお題について、Production I.Gの企画プロデューサーである平澤直氏が(特に「輪廻のラグランジェ」を引き合いに出して)講演、その後質疑という形式だった。

 講演内容については、許可も取っていないし、あまり深くは言わないことにして、思ったことを中心に述べたい。

 とは言っても何も書かないのはなんなのでひとつだけ。

 「地方が持っている魅力を作品に利用できる」というものをコラボのメリットとして挙げていて、そのなかで「日本のコンテンツは日本語と日本の風土に大きく依存している」「たとえば「かわいい」「甘酸っぱい」などの言葉は日本語にしかなく、またそのような感情もない。それを表現できるのは日本のコンテンツだけ」という言葉になるほどと思った。シニフィアンシニフィエの問題っぽいが、他の言語文化の人々が日本の「かわいい」とかに感情移入する構造は、考えられるべき問題だと思う。考えるべき。

 

感想 

 ・平澤さん自身が再三おっしゃっていたのだが、今回の講演内容は、企画プロデューサーからの視点であって、他の視点(商工会、官庁、市民等)からではまた別の見方ができるだろう。今回の講演では、(生々しくなるのを避けたのかもしれないが)ビジネス的な視点があまり見られなかったように思う。

 ・質問もしたのだが、地方とのコラボ作品では、やっぱり冒険できないような気がする。アニメに限らず、地方と組んだ作品は山ほどある。浜松で言えば「青い青い空」(2010)があるが、やはり青春もの。「毒のなさ」が結構必要条件な気がする。たしかにホラー作品などでも「聖地化」はされなくもないけど、やっぱり大々的にPRはされない気がする。でもそれでいいのか。演出陣は納得できるのか。

 

 もう少しあるけど、こんなところにしておきます。

 

おわりに

 ・テーマに関心が多少でもある人は今後の企画に参加すべき。

 ・次回は12月15日に「パンパカパンツ」の原田拓朗氏を迎えて開催するようです。

ブログ開始

 ブログやるやる詐欺して一年くらい経ってしまった。

 いまさらやります。

 せっかくなので「ブログめんどくさいなぁ」と思って今までやらなかった理由を列挙してみる。

 

・どこのサービス使えばいいのかわからない。

 → どこが使いやすいとか、どこがかっこいいとかわかんない。「プゲラw」って笑われたくない。

 → はてな自体も、ダイアリーとブログとあって意味わかんない。

 

・量、質ともに要求されてる気がする。

 → twitterが出てきたせいで、ある程度の量が求められる気がする。

 → 長文になると、くだらないこと書けない。

 

・頻繁に更新しなければならないのではないかという危惧。

 

・文章のレイアウトとかにも気を使わなければならない。

 → この文章自体も、この箇条書きをもっときれいに見せられるはず。

 → だけどやる気ない。

 

 以上から、いままで放置してたけど、「量、質こだわらなくていいじゃん」という気がしてきたので、大体適当に、たまに真剣に書いていこうかと思います。