オリジナル/コピーとはなにか。作品の同一性。

最近ずっと自己論ばっかりやっている。自分主催で後輩と読書会をしていて、そこでも(アンソニー・エリオット『自己論を学ぶ人のために』を)やった。そのリポートを書くかということで、そのアイデアをポツポツと書く。その第一弾。

 

 ミード以降、(シンボリック)相互行為論の成果によって、自己の社会性、つまり「自己が他者(社会)によって規定されている」というテーゼが受け入れられるようになった。

 

 マルクスはこの自己の社会性における「社会構造」の部分を先駆的に発見していたのではないか。というより、相互行為論がそれを拡張したと言うべきか。

 

 この発見は、アルチュセールの「呼びかけ」、フーコーの「主体化」等、フランス哲学に受け継がれていっている。

 

 まぁつまり、デカルトのコギト(我思う故に我あり)的なものへの批判なのかな。相互行為論はアメリカで、マルクスはドイツ、アルチュセールやその弟子たちはフランスと、西洋でもアメリカでも、それが噴出したと。

 それはいいとして、ここで表題の件。オリジナル/コピーとは何か。

 

1. 自己(西洋哲学なら主体といった方が適切か)は大なり小なり社会によって定義づけられている。

 

というテーゼを受け入れるのならば、ここでこんなことが言えそうだ。

 

2. 自己が作り出した作品は、完全なオリジナルなど存在しない。

 

(ここで、クリステヴァ間テクスト性(intertextuality)が想起されるが、これは読者論であって作品論ではない(し、だからこそ転回という意味で重要)と思うので脇に置いておくことにしよう。)

さて、しかし、ここで問題になってくるのは、「なにをもってオリジナル/コピーなのか」ということである。以下のテーゼのどちらを受け入れるか。

 

 3-1. 完全なオリジナルでなければ、作品Aはコピーである。

 3-2. 完全なコピーでなければ、作品Aはオリジナルである。

 

 テーゼ3-1を受け入れた場合、すぐさま以下のテーゼが受け入れられる。

 

 4-1. すべての作品はコピーである(完全かどうかは不明)。

 

 これではあまりにもラジカルすぎるし、実際の感覚では、オリジナリティを感じる作品は存在する(し、それらを肯定したい)ので、これは是非とも棄却したいテーゼである。

 そこでテーゼ3-2を受け入れてみよう。ここからはあまり受け入れがたいテーゼが引き出されないが、そもそもテーゼ3-2自体がラディカルすぎるという感じがある。ここをもう少し精緻に議論したい。

 しかし、そろそろ長くなってきたので、テーゼ3-2を発展させる際に発生する問いだけ提出しておこう。

 

 3-2に関連する問い1. 完全なコピーとはなにか。

 3-2に関連する問い2. オリジナルのなかのグラデーション(つまり、完全オリジナル、オリジナル、コピー、完全コピー等)はどのようにつけられるべきか。あるいはつけることは可能なのか。

 

 問い1について少しだけ書いておく。これは同一性の議論につながるのではないか。つまり問い1は、「同一な物は存在するか」「A=Bは可能か」というウィトゲンシュタイン的問いになるのではないか。

 作品論で言うと、たとえば、便器を美術館に展示したときに、私たちはそれを便所で見たときとは(たとえ、全く同じ物を移動させただけであっても)異なる物として見る。つまりコピーであっても、やはり違う物であると論ずることは可能なのである。

 

 と、ここまできて留保しておいた間テクスト性の問題に戻ってきてしまった。やはり無視できないのか。

 

 

 今回はここまで。次回はあるのか。そして批判がほしい。